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 地名「鬼沢の由来」について

鬼沢が地のない長根派(ながねはだち)という地名であった頃、岩木山周辺を阿曽部(あそべ)の森と言われ、弥十郎という農夫が岩木山中の赤倉沢で大人(オオヒト=鬼)と親しくなり、良く力比べをし、相撲をとっては遊んでいた。弥十郎は大人(鬼)に度々仕事を助けてもらっていた。そこで水田を耕しているが、水不足で困っている事を話した。それを聞いた大人(鬼)は、「それでは私の仕事をしている所を見てはいけない」と告げられた。そして、赤倉沢の上流、余魚沢から一夜にして堰を造り、水を引いてくれた。村人は喜び、この堰を鬼神堰(キジンセキ)とか逆堰(サカサセキ)と呼び大人(鬼)に感謝した。ところが、弥十郎の妻が大人(鬼)の仕事をしている所を見てしまった。そこで大人(鬼)は堰をつくる時に使った、鍬とミノ笠を置いて去り二度と姿を見せなくなった。弥十郎はそれを持ち帰り祀ったのが鬼神社の始まりである。そして、地名を「鬼沢」としたのである。

以上、地名「鬼沢」の由来を地元の小学校や子供達、または、学識者・教育者に鬼沢語り手として言い伝えている、氏子「藤田 日出子」さんからお話しを頂きました。

現在の鬼沢にも「鬼神社」が祀られており、角のない優しい鬼として、村人に慕われております。また、鬼神堰(逆堰)など、鬼が造ったという川は、今でも現存し、下流から上流にのぼって流れているように見えるのです。また、弥十郎という農夫と鬼が相撲をとったといわれている、「鬼の土俵」などもあり、ここ津軽鬼沢には点々と鬼にまつわる石碑や神社が建立されています。風習としても、ここ津軽鬼沢では、節分の日に豆をまきません。また、端午の節句には、蓬や菖蒲を屋根の上に置かないといういわれがあります。

 古代より言い伝わる鬼神伝説
 --津軽鬼沢に点在する10の神社--

りんごの里「津軽鬼沢」には、農業神である「鬼神様」の「鬼神社」を中心に、10を数える神社が村内末広がりに祀られております。古代より言い伝わる鬼神伝説とともに、今なお現存する10の神社を今回、このページより皆様へご紹介いたします。津軽は鬼伝説の根づく鬼沢の由来と景色を少しでも伝えることができればと幸い思います。(テキスト・画像撮影 / 鬼沢氏子:藤田 世城)

 鬼神社の由来

「鬼神社」の由来をお伝えしたいと思います。鬼神社「きじんじゃ」または、「おにじんじゃ」といい、「鬼」を祀る風習が、ここ「鬼沢」にあります。地名「鬼沢」の由来を簡潔にお伝えしますと「阿蘇部(あそべ)の森に大人(鬼)がいて、この大人(鬼)が里の人「弥十郎」と相撲を取ったり、耕作の手伝いをしていた。ある日、弥十郎が干ばつで困っていることを大人(鬼)に伝えてところ、大人(鬼)は一夜にして堰を作り大量の川水を村へ与えた」という。それからというもの、里の村人たちは、この大人(鬼)を鬼神様として祀り、地名を「鬼沢」とし、「端午の節句に菖蒲を葺いたり、節分に豆を打たない」などの風習が今現在でも守られております。創建についての記載はありませんが、貞享4念(1687年)の検地水帳では「鬼神社地」、宝永元年(1704年)の社堂境内記には「鬼子母神社」、正徳元年(1711年)以降の多くの史料に「鬼神宮」と記載されております。また、その歴史につきましても、深い宝物が数点あり、一部には、 あの赤穂藩主「森右兵衛」寄進の扁額があり、津軽藩10代藩主「信順」の中風に効くという伝えにより使者を出し祈願したところ、平癒した記念の宝物という歴史もあります。社伝によれば、「延暦年間、坂上田村麻呂が蝦夷平定にあたり、岩木山本官の高照比売命(たかてるひめ)の霊験を受け、岩木山麓に巖鬼山西方寺観音院を創立した際に合わせて歓請した」といわれており、その後、現在の鬼沢へ移ったといわれております。毎年、旧5月29日に行われる鬼神大祭があり、角のない優しい鬼として、今でも村人に慕われております。

 鬼神社の「大鳥居」

大鳥居

赤い大鳥居。鳥居に掲げられている鬼神社の額がその存在の荘厳さを漂わせています。

 鬼神社の「大額」

大額

鬼の「ノ」がないことから、角の無い優しい鬼として村人から慕われています。また、この大額は、鬼神社の奥宮に保管されている公家「近衛忠煕」公から奉納された額をコピーしたもので鬼の「ノ」を取った「鬼」を「カミ」(神)と呼んだそうです。

 鬼神社の「本鳥居」

本鳥居

全国でも珍しい本鳥居。それは、大鳥居が西側に位置し、ぐるりと東へ回ると「本鳥居」が見え、奥に本殿が位置していることです。通常の神社は、大鳥居から真っ直ぐに本鳥居があり、奥に本殿があるのですが、鬼神社はどういう理由かこのような境内位置になっています。

 鬼神社の「卍」

卍

本鳥居に飾られている「卍」字。その理由は未だ持って不明ですが、津軽藩氏の軍旗にも「卍」字が用いられています。また、現弘前市のシンボルマークも「卍」字から、ここ津軽一帯には武士の信仰心とともに、戦場においての仏の加護を得ようとしたものと考えられます。また、ここ鬼沢の地より発している歴史のある寺院「赤倉山宝泉院」には鬼神出現の御姿の図などが祀られており、その描かれている旗にも「卍」字が模様されています。いずれにしても、この「卍」字には深い歴史があることは感じ取られます。

 鬼神社の「本殿」

本殿

鬼神社の本殿になります。屋根下には、鬼沢の村人が奉納した鬼にまつわる奉納物が並び展示されています。

 鬼神社の「本殿奉納物」

大鳥居

地名「鬼沢」の由来にまつわる奉納物。中には、鬼神社の御神体である「鍬」をコピーした奉納物もあります。農業の神として村人に慕われている証と思います。

 鬼神社の「奥の院」

奥の院

本殿奥に位置する奥の院。御神体である「鍬」が保管されています。また、鬼神社の歴史を物語る貴重な宝物も多数存在するとか。氏子である小生も未だもって拝見したことはありません。故に、その歴史の大きさ、深さなどスケールの大きい妄想についつい入ってしまいます。

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 鬼の土俵の由来

「鬼の土俵」の由来は、鬼沢の村人「弥十郎」と「大人=鬼」が相撲を取り、親交を深めた場所として今に言い伝わり、雑草が伸びない土俵と伝えられています。実際には、言い伝えほど雑草が茂らないわけではありませんが、周囲の草丈に比べ、伸びが低く、円形を呈しています。

 鬼の土俵「鳥居」

鳥居

鬼沢の山奥地にその土俵はありました。「鬼の土俵」。
古く昔から村民へ言い伝たわる鬼神伝説・由来地の1つです。

 鬼の土俵「石碑」

石碑

鳥居の隣に立派な石碑があり「鬼の土俵」と確かに存在しています。

 鬼の土俵「土俵跡」

土俵跡

ここが村人「弥十郎」と「大人=鬼」が相撲をとった場所と言い伝わる「土俵跡」です。周囲の草木と比べても分かる通り、雑草の背丈が異様に低いです。

 鬼の土俵「小宮」

小宮

鬼の土俵奥地に祀られております「小宮」です。鬼の土俵と呼ばれ、いにしえより言い伝わる神社として村民に慕われているのが伺えます。

 鬼の土俵「杉風景」

杉風景

鬼の土俵周囲には、数十年も経つ杉が数多くあります。古から伝わる「大人=鬼」がここにいたのかと想像してみると、壮大な伝説をはじめ、未だもって知られていない歴史が埋もれているような気がします。

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 鬼の腰掛柏の由来

「鬼の腰掛柏」の由来は、「弥十郎」と「大人=鬼」との親密な関係が伝わってきます。言い伝えでは、大人(鬼)が弥十郎のいる村(鬼沢)へ向かう途中、腰を掛け休んだ場所として知られ、また、弥十郎と大人(鬼)が親交を深め話し合った場所としても言い伝えられています。その場所が、現在「鬼の腰掛柏」と呼ばれ、「県の天然記念物」として鬼沢の地に祀られています。

 鬼の腰掛柏「鳥居」

腰掛柏鳥居

鬼の腰掛柏に向かう途中、突然見えてくるのがこの赤い鳥居です。鬼の腰掛柏も1つの神社として祀られており祭神は大山祇命です。

 鬼の腰掛柏「石碑」

腰掛柏石碑

鬼が腰を掛け休んだとされる場所にその石碑が建立されています。「鬼神腰掛柏」と確認できます。

 鬼の腰掛柏「県の天然記念物」

県天然記念物

県の天然記念物に認定されていることが伺えます。鬼伝説の一端として語り継がれる神社でもあります。

 鬼の腰掛柏「カシワの木」

カシワ

幅広く、ドーンと構えたカシワの木。鬼伝説を伝える木として慕われております。

 鬼の腰掛柏「カシワ母体」

カシワ母体

重厚な母体から、何本にも分かれたカシワの枝が、周囲に日陰を作り、その威容を十分に発しています。

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 鬼の足跡のご紹介

りんごの里「鬼沢」から、360度見わたす限りに広がるりんご畑へ向かう途中、リンゴ畑の丘の上にその石碑が無造作に置かれています。この石碑の真ん中に丸い凹みがあり、これが鬼の足跡として村内の人々に知られています。

 鬼の足跡

鬼の足跡

鬼の足跡は、里からりんご畑へ向かう途中、360度見渡す限り広がるリンゴ園の丘にあります。無造作におかれた大きな石碑の真ん中に丸い凹みが見受けられます。これが、鬼の足跡として今なお伝えられています。

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 春日神社のご紹介

春日神社は、鬼神社境内に祀られています。この春日神社ですが、元々は鬼神社境内には祀られていなかったようです。以前の場所を調べましたら、鬼神社より北方面1キロの川岸にあったようです。近年になり、周辺に流れる河川の整備と区画整備により移されたと村内氏子より教えてもらいました。荘厳さ漂う鬼神社境内に、静かにたたずむ春日神社。鬼神社本殿通りの途中に祀られており、村人より崇拝される神社です。

 春日神社・本鳥居

春日神社・本鳥居

鬼神社の本殿へ向かう途中に春日神社があります。荘厳さ漂う鬼神社境内に祀られており、村人からも大切に崇拝されています。

 春日神社・大額

春日神社・大額

若干、文字色が薄くなり、歴史の深さを物語っている大額ですが、しっかり「春日神社」と記されています。

 春日神社・由来額

春日神社・由来額

春日神社の歴史を物語る由来額です。春日神社の建立から移転まで分かりやすく記載されています。

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 弁天様のご紹介

弁天様は、鬼神社境内に祀られています。弁天様の本鳥居をくぐると、弁天様を祀る弁天社が伺えます。その周囲には、弁天様を守るかのように、グルッと360度にわたる深い「ため池」があり、その中心に弁天様が祀られています。荘厳さの雰囲気漂う鬼神社境内に、弁天様のやわらかな優しさを放つ静寂さが感じられます。弁天様は、鬼神社境内に大切に祀られ村人から崇拝されています。

 弁天様・本鳥居

弁天様・本鳥居

荘厳さ漂う鬼神社境内の一端に弁天社があります。見ての通り、高くそびえ立つ鬼神社境内の杉木の暗闇の中、一寸の光を放つかのような、やわらかな静寂さが漂います。

 弁天様・弁天様

弁天様・弁天様

鬼沢村内氏子の手書きでしょうか。かなりの年月が経っているように見えます。文字の雰囲気からも村人の弁天様への大切な想いが感じ取られます。

 弁天様・本殿

弁天様・本殿

本鳥居をくぐると、鬼神社境内の暗闇からパーッと明るく目映いほどの空間が広がっています。赤の橋を渡った先に見えるのが、弁天社の本殿になります。弁天社独特の華やかな空間が広がっています。

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 馬頭観音のご紹介

馬頭観音は、鬼神社から西方約1キロの離れの場所に位置し、近くには鬼沢研修会館や児童館などもあり、村内の憩いの場所に位置しています。馬頭観音の云われについては、諸説紛々ありますが、馬が移動や荷運びの手段として使われることが多い昔、生活の中心的役割を果たしてきた馬や牛を供養する動物供養塔の意味合いが強いようです。また、雨乞いのために犠牲となった供養碑としても言い伝えられています。

 馬頭観音・本鳥居

馬頭観音・本鳥居

馬頭観音の本鳥居になります。日差し明るい場所に位置し、近隣には鬼沢研修会館が位置します。

 馬頭観音・大額

馬頭観音・大額

馬頭観音の大額になります。立派な文字が記され、村内からの崇拝の念を感じ得ます。

 馬石碑

馬頭観音・馬石碑

石碑自体はかなり古いものと思います。また、本殿ちかくには時の経過とともに劣化した馬の石碑を確認しました。

 馬頭観音・大石碑

馬頭観音・大石碑

大石碑になります。境内にひときわ目立つ大きさで、馬頭観音の歴史を物語っているかのような大石碑です。

 馬頭観音・本殿

馬頭観音・本殿

馬頭観音の本殿になります。他の神社にくらべ、さほど大きくもなく、明るい場所のせいか、荘厳な雰囲気をかもしだす本殿のイメージより、むしろ村人の子供達が、かくれんぼ等の遊びの場所として賑やかな風景も感じられる本殿でした。

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 牛頭天皇(ごずてんのう)のご紹介

牛頭天皇は、閻魔大王の側近とされ知られています。周囲に2分する河川の地点に祀られています。その理由は、その昔、村人たちが河川から流れる水取りの争い事を避けるためとの云われがあります。今は蛇口から当たり前のように流れる「水」ですが、当時の人々にとっては、とても貴重な資源として大切にされていたことが理解できます。この牛頭天皇は、鬼神社より西方面1キロの小高い丘に祀られ、丘の下をサラサラと流れ2分する河川の監視のため、現在も丁重に祀られています。

 牛頭天皇・本鳥居

牛頭天皇・本鳥居

牛頭天皇の本鳥居になります。村人が河川から流れる「水取り」の争い事が起きないよう、閻魔大王の側近である牛頭天皇をここに配置し、監視するといった云われから、ここに現在も丁重に祀られています。また、牛頭天皇へお参りすると、地獄から出られないという言い伝えもあり、その身震いする恐ろしさが、人々の世を監視するという云われも理解できます。

 牛頭天皇・大額

牛頭天皇・大額

牛頭天皇の大額になります。牛頭天皇を拝み崇拝しますと、地獄から抜け出せないという恐ろしい云われもあります。地獄の門番という云われからも納得します。

 牛頭天皇・庚申塔

牛頭天皇・庚申塔

牛頭天皇社内にある庚申塔です。庚申塔とは、60日に一度の庚申の日に、人間の体内にいるという三尸虫(さんしちゅう)という虫が、人々が寝ている間に天帝に人間の悪事を報告しに行くのを防ぐため、庚申の日に夜通し眠らないで天帝や猿田彦を祀って宴会などをする風習に建てられた石碑、塔のことです。

 牛頭天皇・猿田彦大神塔

牛頭天皇・猿田彦塔

牛頭天皇社内にある猿田彦大神の石碑です。庚申塔が建立される場所には、このように猿田彦大神の石碑も一緒に祀られていることがあります。これは、庚申の祭神が神道では猿田彦神とされる由来と、この地では、昔から河川の水を引く大神様として村人から信仰される云われからも祀られているようです。鬼伝説の地「鬼沢」の由来にもある、鬼神様の水引き伝説を守ろうとする村人の深い崇拝の気持ちが感じられます。

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 熊野神社のご紹介

熊野神社は、鬼神社から北西約1キロ離れた所に位置します。主に、熊野三山を本宮とし、全国に勧請(かんじよう)された神社として知られる熊野神社。この鬼沢の地にも位置し、安産や縁結びとしても信仰が厚いようです。しかし、恥ずかしながら、鬼沢の氏子でもある自身ですが、熊野神社については、ごく最近認識した次第であります。この地に祀られている云われについては、只今調査中です。

 熊野神社・本鳥居

熊野神社・本鳥居

熊野神社・本鳥居になります。鬼神社から北西1キロ離れた箇所に存在し、本鳥居には大きなしめ縄が飾られています。鬼神社の旧正月行事「裸参り」より奉納される神前物になります。

 熊野神社・石碑

熊野神社・石碑

立派に彫られた彫刻文字が伺えます。熊野神社の由来については只今調査中です。

 熊野神社・本殿

熊野神社・本殿

本殿と呼ぶには少し小さな建物になりますが、本鳥居をくぐりぬけ林道をとおりみえてくる様は、ひとつの物語にでてくる不思議な空間が広がっています。

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 白山神社のご紹介

白山神社は、鬼神社から北西約1.5キロ離れた所に位置します。村内に伝わることは「女性のための神社」という言い伝えがあります。また、白山神社の御神体は応安5年銘をもつ板碑であり「貞亨4年検地水帳」によれば、鬼神社と並び「白山堂」という名で記録されています。鬼神社と同様、深い歴史をもつ白山神社。村内にある10の神社のうち、鬼神社の次に大きな境内として記憶しています。

 白山神社・本鳥居

白山神社・本鳥居

白山神社の本鳥居になります。鬼神社から北西へ約1.5キロ離れた所に位置します。立派な石碑が見受けられますね。

 白山神社・通り

白山神社・通り

本鳥居をくぐりますとゆったりとした坂道に時の流れを感じる杉林が諸所狭しに生い茂っています。

 白山神社・石扇

白山神社・通り

白山神社は、女性の神社として伝えられています。その面影がこの石扇になります。女性が化粧する際に使われる小道具が石の中に彫られています。なかなか珍しい奉納物と思います。

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 鬼沢の由来から鬼沢神社境内めぐりを終えて。

鬼沢村内に10を数える神社境内。末広がりに広がる神社の云われから、鬼神様を祀る鬼神社を中心に「鬼沢村内を災いから守るため」にあると思えました。昔から言い伝わる鬼神伝説とともに、りんごの里「鬼沢」には、現代においても未だ知られていない歴史が埋もれているように感じさせて止まない今回の神社境内めぐりでした。
(2012年1月11日 / 鬼沢氏子:藤田 世城)

※テキスト内容・掲載画像は、地元氏子から営々と語り継がれてきた歴史と文化、そして、私の個人的視点から感じ得たもので、歴史的背景への真意を示すものではございません。あくまでも、りんごの里「鬼沢」と歴史深い「鬼神社」をご紹介するページとして、ご理解のほど宜しくお願い致します。

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